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​長楽寺

本尊 開基 歴代祖師

April 02, 2017

臨済宗妙心寺派 青龍山 長楽寺(静岡臨濟寺末)

本尊 

南無釈迦牟尼仏

長楽寺開基

長樂斎殿佛心法輪大居士(粉川長樂斎)

青龍院殿瑞光妙安大蓮尼(妻:伊勢神戸氏出身)

​歴代祖師

長楽開創敕謚大覺禪師蘭渓道隆大和尚 

長楽開山芝巖德香禪師大和尚

転派開山三住妙心當山再中興第二世森岩矗和尚大禪師 

前住妙心當山第三世安禪石和尚大禪師 

妙心第一座當山第四世蘭宗省和尚禪師 

妙心第一座當山第五世忠峰恕和尚禪師 

妙心第一座當山重興第六世泰安通和尚禪師 

妙心第一座當山第七世岱叟松和尚禪師 

妙心第一座當山第八世良遂初和尚禪師 

妙心第一座當山第九世基山丕和尚禪師 

妙心第一座當山第十世碧潭如和尚禪師 

前玉鳳當山第十一世牛泉寔和尚禪師 

前玉鳳當山第十二世大同理和尚禪師 

妙心第一座當山第十三世忍宗衷和尚禪師 

妙心第一座當山第十四世大歓喜和尚禪師 

妙心第一座當山第十五世亨元貞和尚禪師 

贈住持妙心當山第十六世琇山瑩和尚大禪師 

贈前住妙心當山第十七世柏翁啓和尚大禪師

贈住當山妙心東堂第十八世俊道孝和尚禪師 

贈再住妙心當山第十九世義山典禪師大和尚

 

現住職 儀堂友司

歴史

April 02, 2017

​ 仁安年中(1166年~69年)粉川長楽斎の娘力姫(賀姫)が、真薦池の水龍に魅入られて水中に沈んだらことから、長楽斎が娘の冥福を祈るため、屋敷を寺とし、薬師如来と阿弥陀如来を本尊とした。その後、中国宋の臨済僧で、北条時頼に招かれて鎌倉建長寺を開いた蘭渓道隆が関東下向の際、蘭渓道隆を開山として、青龍山長楽寺と号した。青龍山という山号は、地主神の青龍から土地を譲り受けて開かれたことを伝えているとみられ、境内に聖徳太子信仰を物語る太子堂があることも注目される。

 長楽寺は、建長7年(1255年)火災にあい、正中年間(1324~26年)に長楽斎4世の孫法栄斎が再建、中国杭州からの渡来僧で鎌倉建長寺・円覚寺の住持をつとめた霊山道隠の弟子、鎌倉五山の浄智寺の芝巖德香を招いて中興開山とした。

 開基粉川長楽斎は、陸海交通の要衝であった小川駅(焼津市)の長者小川氏に関わり、藤枝宿の経営に携わる有徳人とも呼ばれた長者であると共に益頭荘の開発領主のひとりともみられる。また、益頭荘の鎌倉時代の地頭は北条氏であったから、芝巖による中興にあたっては、北条氏の関与もあったことが考えられる。

​ 文明5年(1473年)8月19日連歌師の正広は益頭荘を領する摂津之親に随って下向し、おそらく40日あまり長楽寺に滞在した。そして、鬼岩寺近くの鬼岩に苦しさをこらえてのぼり、東の高草山のかなたに雲もかからぬ富士山を眺め、年来の望みを果たして、

ふじのね八雲ゐに高し大ひえや はたちあけてもいかでおよばん

(富士は空高くそびえている 比叡山を二十ほど積み重ねてもおよばないほどだ)

と伊勢物語の「比叡の山を二十ばかり重ねあげたらんほど」叙述されたよりももっと高いと詠んでいる。なお正広は、長楽寺の本尊を薬師如来と記している。

 永正5年(1508年)10月、今川氏親は長楽寺に制札を下し、山林竹木の伐採や僧侶の還俗を禁じて保護と統制を加えた。(藤枝市史だより15号

 大永5年(1525年)12月、今川氏重臣掛川城主朝比奈泰煕の弟時茂の駿府館で鎌倉建長寺前住持の駿府来訪を機に開かれた連歌会に、今川氏輝や連歌会、天龍寺僧と共に長楽寺住持も参加しており、長楽寺と今川氏やその重臣とのつながりを考えさせる。

 天文2年(1533年)12月、仁和寺の尊海は東国下向の途中、長楽寺に立ち寄ったが、この時、今川氏親の子で同じ臨済宗の善得寺(富士市:廃寺)の栴岳承芳(のちの今川義元)がいて、師の太原雪斎らと和漢の歌会をおこなっているのは、長楽寺と今川氏が深い関わりをもっていたことを示している。

 永禄11年(1568年)甲斐の武田信玄の駿河侵攻後、翌年正月に作成された臨済寺領書立には、長楽寺が臨済寺末寺として、畠年貢を中心とする代方1貫600文がわたされていることがみえる。その後、天正5年(1577年)10月、武田家の信玄から勝頼への代替わり安堵として、長楽寺分3貫文が認められている。この年11月、長楽寺勝安道最の父の葬儀にあたり、臨済寺の鉄山宗鈍が法語を作っている。

 天正18年(1590年)駿河国が豊臣氏の領地となった。秀吉が小田原征伐の帰路、長楽寺に450石の寺領を安堵したが、戦乱によって寺も衰退していたため、江戸時代には4石5斗になってしまった。それでも長楽寺は名刹であったため江戸時代将軍代替えの節は、朝鮮通信使の宿泊所にあてられていた。

 延宝年間(1673年~80年)輪番制の住職制度を廃止し、独住制となり、静岡臨済寺より​森岩宗矗を請して二世とした。

 天和2年(1682年)土屋相模守政直4万5千石の田中藩主となるや長楽寺を香花所と定めたが、わずか2年後に大阪城代になって転封したため土屋家の記録は残っていないが、土屋相模守政直の父である土屋数直(融相院殿前但馬太守従四位拾遺寛翁道智大居士神儀)の豪華な位牌がおさめられています。

 長楽寺出身(町名)の和田家は、田中藩の御殿医をつとめたことのある医者であるが、江戸時代中期頃から岩村藩横内陣屋(藤枝市横内)お抱えの医師になり、横内で医業を営んだ。幕末になり美濃国岩村城に移る際、和田家では先祖供養のため「補中丸」という子どものかんの虫や胎毒の薬の製法を長楽寺に伝えた。長楽寺ではこの薬を製造と販売を戦前まで行っていた。

引用文献【藤枝市史】【藤枝・岡部・大井川の寺院】

山門

April 02, 2017

 高根白山神社。平安時代末期の文治年中(1185年~90年)に愚白上人が加賀国(石川県)の白山神社の分神をうけて創建されたと言われる。

 

 慶長2年(1597年)加賀国から遠藤加賀守藤原政重が市之瀬に迎えられ、代々高根神社の神官として奉仕するようになった。神官の権威からか、遠藤家は村の指導者として地域の平安と繁栄に努められた。「25石の大名格の家にして、その村中の百姓75戸ばかりありて、俗謡にも『山家なれども市之瀬都二十五石の殿が住む』と謳われる豪家にして、寛政2年(1790年)11月幕府に提出した図面を見るに間口二十一間にして、向うて左方なる桁行六間、梁間五間の大広間は、忠長の起居したる座敷なりといふ。」江戸時代初期から明治時代中頃までの約300年間、遠藤一族が日々起居し、生活してきた邸宅であった。明治に至り家運は没した。その時に遠藤家の豪華な門が明治末頃から藤枝の長楽寺に移築されたと言われている。長楽寺本堂の屋根替えをした時に「延享3年(1746年)」と墨書した遠藤家の棟札が出てきたと言うから間違いなかろうと思われる。その門も平成20年に改修を行い現存している。

引用文献【瀬戸谷の歴史】

慈母観世音菩薩

April 02, 2017

 沖和市(おき わいち)明治28年6月5日生まれ。小野鵞堂、近藤雪竹らにまなび、昭和6年泰東展文部大臣賞。白子町に書塾「六鳳書院」を開きました。その後静岡に転居し、楷書の六鵬(ろっぽう)として名を成し、自伝小説「三人の母」はテレビドラマ化(ポーラテレビ小説)されました。日本書道連盟副理事長、県書道連盟会長などをつとめた。昭和時代の書家。沖六鵬(おき ろっぽう)氏が幼少時代によく境内で遊ばせて頂いたと慈母観世音菩薩を建立寄贈され、昭和47年6月25日に落慶が行われました。

六道の庭

April 02, 2017

 昭和56年庫裡改築時に藤枝市出身の石彫家杉村孝氏によって書院の横に「六道の庭」が作庭され、おもむきが一層深まりました。(非公開)

青池の大蛇伝説

February 18, 2020

駿河記

 

長楽寺由来記

 

駿河国新風土記

駿国雑誌

駿河志料

藤枝市史

藤枝市郷土博物館年報・紀要

静岡の伝説

賀姫と大蛇の竜太郎

藤枝西高等学校

郷土史研究部 郷土 第22号

2015年 藤枝東高等学校

演劇部 蛟蛇思春譚

2018年 志太ミュージカル

​TREASURE

藤枝市 寺院年表

February 21, 2020

西暦 645 興福寺

   705 清林寺

   725 補陀楽寺

       清水寺

       鬼岩寺

       洞雲寺

       万松院

   728 安楽寺

  1044 養源寺

  1069 竜雲寺

  1163 万福寺

  

  1166 長楽寺

  1180 九景寺

  1196 蓮生寺

  1219 潅渓寺

  1223 観音寺

  1252 新護寺

  1253 大慶寺

  1323 妙法寺

  1331 満蔵寺

  1351 宗伝寺

  1356 偏照寺

  1368 村岡観音堂

  1387 長慶寺

  1429 西光寺

  1441 富洞院

  1444 総善寺

  1453 宗乗寺

  1462 正定寺

  1480 大霊寺

  1486 了善寺

  1488 梅林院

       養雲寺

 

  1493 竜太寺

 

  1494 興福寺

 

  1500 常楽院

  1503 円良寺

 

  1504 心岳寺

 

  1523 養命寺

 

  1527 慈光院

 

  1528 万松院

 

  1529 東国寺

 

  1532 西運寺

 

  1533 宝国寺

 

  1539 光明寺

 

  1546 最林寺

 

    

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Although the world is full of suffering, it is full of the overcoming of it.

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