長楽寺 門前
長楽寺 山門
長楽寺 庫裏
長楽寺 門前
長楽寺
01
由緒・由来
長楽寺は、町名の由来にもなっており、藤枝市街に隣接していながら、裏山には古木が生いしげり、広い境内は幽寂な雰囲気に包まれている。
平安時代末、藤枝の地に粉川長楽斎という郷士がいた。人に優しく、哀れみ深いことから「仏心長者」と人々から尊敬を集めていた。長楽斎には一人娘がおり、名を力姫(賀姫)と伝う。この力姫が、美少年に化けた青池の大蛇と恋通じ池に引き込み命を落としたことから娘の菩提供養のために長楽寺を建立し、力姫を弁才天として祀ると言われる。
また、この話には、二説あり。この信心深い長楽斎の元に青龍が現れ、老翁に化けて仏法の功徳がなければ成仏できないと相談した。この声に応え、自分の屋敷を移し、屋敷裏にある「まこもの池」を青龍に与え、長楽寺の鎮守弁才天として祀ったと伝う。青龍のために長楽寺を建立し、山号を青龍山と言う。
大蛇に娘をさらわれた粉川長楽斎が、娘の冥福を祈って建てたと伝えられた長楽寺開創にまつわる「青池の大蛇」が、有名となり伝説として人々に語り継がれ、藤枝を代表する名刹としても知られ、文人や武将が立ち寄ったといわれています。
江戸時代の代表的地方誌
『駿河記』 文政 元年(1818年)
『長楽寺由来記』 天保 4年(1833年)
『駿河国新風土記』天保 6年(1835年)
『駿国雑誌』 天保13年(1842年)
『駿河志料』 文久 元年(1861年)
その記述内容は五誌それぞれに異なっているが、概略は同じである。
仁安年中(1166~69年)、岡出山の麓に粉川長楽斎という長者が住んでいた。妻は秋野といい、伊勢国神戸氏出身の娘であった。夫婦とも心優しく、憐み深く、困っている人には手をさしのべるので「粉川長者」「仏心長者」と呼ばれ尊敬されていました。
この二人の間には賀姫(いわいひめ)と呼ばれる美しい一人娘がおり、長じるに及んで美人の誉れも高く、父母の寵愛はひとかたならぬものであった。姫も両親同様に仏を信じ、長者が建立した薬師堂に毎日お参りをしておりました。
長者屋敷の裏山の東に「真薦の池」(青池)と呼ばれる周囲一里程の大きな池があり、この池には昔から大蛇(水竜)が棲みついていた。この大蛇は、賀姫と親しくなるために美少年に化けて近づき、やがて賀姫は美少年に魅入られ水中に姿を消してしまいます。長者は、村中の人をかき集め八方手をつくして姫を探したが見つからず、薬師堂から池の方に向かって大蛇のうろこと這った跡が残り、真薦池には、姫の履いていた草履や櫛が浮いていたと報告を受けた。長者は、大変悲しみ、大いに怒り、娘の敵を討とうと奮い立ちます。池のまわりに薪を集め、石を焼いて池に投げ、銅や鉄を溶かして池にそそぎ込み、池を沸騰させて大蛇を討ち取った。そして、長者は賀姫の菩提供養のため、自分の家屋敷に寺を建立し、薬師如来と阿弥陀如来の二尊を本尊として開創されたのが長楽寺であると伝えられています。
その後、中国宋の臨済僧で、北条時頼に招かれて鎌倉建長寺を開いた蘭渓道隆が関東下向の際、蘭渓道隆を開山として、青龍山長楽寺と号した。青龍山という山号は、地主神の青龍から土地を譲り受けて開かれたと伝えられている。長楽寺は、建長7年(1255年)火災にあい、正中年間(1324~26年)に長楽斎4世の孫法栄斎が再建、中国杭州からの渡来僧で鎌倉建長寺・円覚寺の住持をつとめた霊山道隠の弟子、鎌倉五山の浄智寺の芝巖德香を招いて中興開山とした。それ以後300年以上にわたって輪番寺院として住職が数年ごと交代をしました。また、藤枝を代表する名刹として知られ文人や武将が立ち寄ったといわれています。
引用文献【藤枝・岡部・大井川の寺院】